銀河の発見
近年、都会からは星すらも見えなくなってきているので、天の川、銀河を見たことがない人もどんどん増えています。人里離れた場所に行くと、天を流れる川のように銀色の光が太くなったり細くなったり、中州や急流があるかのような有様がみられます。東洋の伝説ではこれを川と捉えて銀河と呼びました。今、銀河という名称は他のものを示すようになってきてしまいましたので、天の川と呼ぶことにしましょう。天の川はギリシャ神話では大神ゼウスの嫉妬深い妻ヘラが出した乳と言う事になっています。これを吸ったヘラクレスは不死の身となったのです。世界各地で、それぞれの民族伝承として天の川が取り上げられています。その多くが天国、あの世、死者の国、神の国等々への道とされています。
肉眼ではぼんやりとした光でしかない天の川に望遠鏡を向けたガリレオは、それが小さな細かい星々の集まりであることを知りました。1609年のことです。そして、その微細な星の群れと宇宙の構造を結びつけたのは、1750年トマス・ライトです。宇宙が円盤状の構造をしていることと、アンドロメダ星雲がこの宇宙の構造の外にあるという考えを出したのです。同時代のカントは、秩序としてかくあるべきものとして、これに哲学的な考察を加えました。
実際の観測から、宇宙の構造を明らかにしようとしたのはハーシェルです。当時、ニュートンによる天体力学の勃興期で、天文学者達は天体力学に全ての力を注いでいました。そのなかで、アマチュアであったハーシェルこそが観測から宇宙の形を導こうとしたのです。星までの距離を導けなかったことから、観測できる星の数と宇宙の広さに幾つかの仮定をして関係を作り、宇宙の大きさを推定したのです。現在の尺度に直すと直径6400光年、厚さはその5分の1というのがハーシェルの観測した宇宙の大きさです。
次に宇宙の大きさに挑戦したのがシャプレーとカプタインです。1918年にシャプレーは球状星団などの観測から直径25万光年厚さ1万8千光年、カプタインは1922年に星そのものの観測から直径5万5千光年厚さ1万光年という数値を出しています。これが我々の知る宇宙イコール銀河の大きさでした。
この時点でトマス・ライトが発案したアンドロメダ星雲がこの宇宙の構造の外にあるという考えは距離を知る術がなかったので、論争にはなっても結論は出ませんでした。年周視差を使った星の距離の計測も、近距離にしか適用できなかったのです。そこに突破口が開いたのが20世紀になってからです。ハッブルによってケフェウス型変光星の周期と明るさに関係が認められ、それをアンドロメダ星雲に適用した結果、アンドロメダ星雲が明らかに宇宙の外にあることがはっきりしたのです。ケフェウス型変光星には2種類あることが判り、年周視差の計測も望遠鏡を大気圏外に打ち上げることによって長足の進歩が行われました。
間接的な距離の判定にはこの後、沢山の方法が考えられました。星雲の中の最輝星を絶対等級で−6等とすることや新星を−9等、超新星を−18等とする事が使われるようになりました。また、銀河団の中の最も明るい銀河を−21.5等とする方法も使われるようになりました。そして、ハッブルによる視線方向の赤方変移による速度距離関係も使われるようになりました。これらの方法で、予断の無い方法はケフェウス型変光星までで、それ以降は仮定上の距離と言う事になります。
ハーシェルが銀河の大きさを見誤ったのは、星間物質による減光のために遠いところの星が見えない為で、この点は光ではどうしようもなく、電波観測によって渦巻きが発見されるとともに銀河の大きさが推定できたのです。
銀河が数億から数千億の恒星と星間ガスの集団であり、大宇宙の構造の単位となっている事が明らかになってきています。