sdwd占星術講座 ヨハネス・ケプラー(20070922)

ヨハネス・ケプラー

Johannes Kepler 独1571/12/21〜1630/11/15ヴュルテンベルグのワイルの生まれ。平民の子だったが、学芸の才を認められ、テュービンゲン大学で哲学を学び神学を志すが、生来の論争好きで人間関係がうまく行かず、グラーツ大学の数学・天文学教授として赴任、惑星の動きについての論文で知られるようになる。新教徒であるが故にグラーツを離れなければならなくなり、ティコ・ブラーエの元に身を寄せて助手となった。師の急死後に火星の観測結果を持ち出して研究、ケプラーの3法則を導いた。この法則の原理は解き明かされなかったが、それはニュートンの万有引力の法則の発見まで待つことになる。


 出生図からは、11室にある木星が友人関係関連での幸運を示す。しかし、7室太陽と水星に対する火星の凶角は対人関係に問題をもたらす。水星の凶角は論争や手紙などのトラブル、太陽の凶角は高位者とのトラブルや性格の問題を示している。まだ発見されていなかったとはいえ、天王星の位置も興味深い。


 11才で難しい神学校の試験に合格する。しかし、家の事情でなかなか行かせて貰えずに1年半待たされてしまう。ケプラーにとっては待ち望み、夢を描いていたことであろう。


 入学してみると神学校の規律は厳しく、密告の制度等で満足な人間関係を築くことが難しかった。11室にある経過土星は、厳しい戒律とそれに則った生活の中で友人関係を構築できずにいることと対応できる。また、病弱で慢性的な頭痛や発熱、胃腸炎に皮膚病に悩まされたという。進行の月が土星を通過する時期であろう。


 上級の神学校からテュービンゲン大学へと進む。聖職者へ登る道が開かれたのである。上昇点の土星は定められた道の中での幸運と援助を示している。。


 2番という優秀な成績で卒業したケプラーに対して、テューリンゲン大学は自校での職を拒否し、遠いグラーツでの数学教師の道を示した。職業の6室には土星があり、職場の困難は一生ものであるが、ここに経過木星がやって来ているために何とかもたらされたチャンスだったのかも知れない。


 大学に残って聖職者の道を歩みたかったケプラーに対して、大学は門戸を閉ざしてしまった。グラーツでの数学教授では嫌だったが、不本意ながらそれに従い、グラーツへ向かうケプラーであった。この放逐とも言える処置はケプラー研究家の疑問の点である。しかし、幸運の星木星は10室で職業的な幸運を示しグラーツでの生活に希望があることを示している。


 赴任した次の年、ケプラーは講義中に天啓を得たとのこと。天啓はこの宇宙が数学的なもので完成されているとの信念となり、一生を通じての活動につながる。水星の進行が天頂へと来ているが、問題は出生時刻の正確さであり、正確なときであるかどうかと、天啓を受けた時刻についても調査されていないので、曖昧なところである。


 23才の資産家の未亡人といえば、財産目当てといっても良いような状況であるが、ケプラーにとっては相手の父親が強硬に反対しているという以外、それほど問題があるようには思えない。本人自身は良い星回りの出来事ではないと考えていたが、それ程悪い星回りではない。


 ケプラーは宗教的対立のためにグラーツを出なければならなくなり、ブラーエを頼ってプラハにおもむく。しかし、ブラーエとの関係はケプラーの激高しやすい質のために問題が多かった。この宇宙の体系を数学的に証明するためにはブラーエの持つ正確な観測記録が必要であり、ブラーエの死後、盗み出すように資料を持ち出している。5室火星をパスする経過木星は何の幸運を表しているのだろうか。奇しくもケプラーは土星リターンとなる時期である。


 その業績と学術的価値は後世大きく評価されることになるが、それからのケプラーは宮廷数学官として占星用暦を作ったり、チャート書いて金を得たが、晩年は肉体的にも精神的にも追い詰められ、最後には荷車に自分の持ち物をすべて積んで無一文で家出をした。土星のリターンを自分の死期と考えていた様子もある。未払いの給料を要求するつもりだったのだろうか。その後、レーゲンスブルグに着いてから熱を出し意識を失って2週間で息を引き取った。


 ケプラーはこの年のホロスコープを作って、星がすべて元の位置に戻っていると書いているが、どのようにしてもそのような星の配置がない。僅かに、1631年の太陽回帰図または年初図を見ると月と火星を除いて出生での星座宮の位置へと戻っている。これが1月15日には月も双子座宮となり、火星の位置のみが違うという配置になる。ケプラーが1930年に作ったその年のホロスコープというのはどのようなもので、基礎データはどこから持ってきたのであろうか。興味は尽きない。