武田 信玄 (20070110)
武田 信玄
甲州のの雄
『風林火山』で有名な武田信玄は、大永元年十一月三日戌の刻に甲府市の石水(積翠)寺裏山の要害山城で生まれたとされています。
グレゴリオ暦で1521年12月11日になりますが、問題は時刻です。定時制として単純換算すると午後7時から9時の2時間です。この事から午後8時と記載している書籍があります。しかし、この時代の甲斐の国で使用されていたのが、定時制なのか不定時制なのかの調べをしていません。多分、不定時制であろうという予断の元に考えれば、冬至の近いこの時期、午後5時40分頃から8時5分頃までが戌の刻になります。この日、日の入りは午後4時30分頃なのです。試しに午後6時、7時、8時のチャートを作ってみましょう。基本的には発見前である天王星以降の感受点は無視することになります。その際の星座宮支配星は、現在の副支配星を使用することになります。
定時制の中心時刻は午後8時になりますが、不定時制の場合は午後7時頃を中心とした時刻で、その中で上昇宮は蟹座宮から獅子座宮に動きます。これらはレクチファイ(出生修正)の手がかりにもなります。
午後6時出生
午後7時出生
午後8時出生
次に厳しい状況の中で決断を迫られるような事件の時の3重円チャートを見てみましょう。出生時刻は午後7時として作成してみます。何れも土星の位置が注目点になります。
世継ぎとしての信玄と当主としての父の争いは、家臣団の支持がどちらにあるかで決したようです。直前に大飢饉の中であるにも関わらず海野氏掃討戦を行い、戦勝したとはいえ信虎に付いていた家臣も離れてしまったのです。今川に嫁いだ娘の顔を見てくると言って関所を超えた父は、帰ってくることが出来ませんでした。日本全国にこの話は伝わり実父追放は不評でしたが、国内は父の暴政に疲弊していたので喜ぶ声が多かったと言うことです。この後信玄は国内をまとめ戦の用意を行っています。
政権奪取後、戦いの用意を調えた武田軍は破竹の勢いで諏訪、そして更に北へと侵攻しますが、村上義清がそれに立ちふさがります。戦いは互角であり、名だたる武将を失い七千人の軍団の1割を失うという信玄最初の大敗北をします。
全ての戦国大名が狙う上洛を目前にしながら信玄は病に倒れます。ほぼ完成していた織田・徳川包囲網で、武田にとっては攻めるだけの状態から、形成が一転し武田家の命運が絶たれることになります。