mS's Ast. 018 本居宣長1

  本居宣長(もとおり のりなが)

 今の日本とその歴史を把握したいが為に、江戸中期に注目し、その政権の第一の人物である吉宗を選んで話を始めたのですが、その政権は増大して行く経済活動を支配できずに、別の哲学思想背景を持つ明治政府と言う形態に変わりました。その哲学思想的背景、つまり「国学」は、この江戸中期の経済活動の活発化によって、遊民生活が出来る階層が出現した為に発達したと考えられます。
 国学は、契沖(けい ちゅう)をして代表者とされる、中世歌学の伝統破壊と上代文学の新解釈の2つの柱を持った初期段階のピークが過ぎ、加茂真淵(かも の まぶち)や宣長によって歌学から「国学」として、1つの思想体系を持ち、それまでの儒教に対抗しうるにまでの発展をしたのです。
 国学は、その後、平田篤胤によって神道的信念が注入され変質し、幕末から維新にいたるまでの精神的指導力となりました。この注入された神道的な側面は、明治政府によって国家神道と言う形で強調して採用され、敗戦まで続くのです。
 敗戦で民主主義と呼ばれる体制が始まったのですが、これも、そろそろ時代の淘汰を受けるときが来ているようです。民主主義以降の形がどうなるかは、色々な見方がありますが、わたくしは、宣長の時代に戻って国学と神道を考えてみなければならないと感じています。

 参考文献としては、吉川弘文館の人物叢書「本居宣長」日本歴史学会編(ISBN4-642-05110-4)が、良くまとめられているようです。
 さて、真っ先に出生データです。1ページ1行目から享保十五年(1730)五月七日(太陽暦6月21日)、夜子の刻(12時頃)、伊勢国(三重県)、飯高郡松坂(現在の松坂市)本町と書かれています。わざわざ、太陽暦(=グレゴリオ暦)で書いてあります。親切だと思いますが、他の部分ではありませんから、たまたま書いてみただけなのでしょう。ここで注意したいのは夜子の刻と書いてあるのはどの様な意味かという点です。この時代は一日の区切りが日の出ですから、子丑寅の刻は前日として書き表されています。つまり夜中の12時(24時表記で0時)が日にちの境では無いのです。まだ、研究途中ですが、この時代の暦も、1日の境は、日の出として作暦されていたようです。
 また能書きが長くなりましたが、入力データはつまり
  17300508  000000 松坂(三重県) 本居宣長
 となります。勿論JST、日本時間です。
 ところで、ついでに、宣長の死亡も出生データに入れてしまいましょう。本文P.
252からP.253にかけてに書かれている日にちを換算すると
  18011105  030000 松坂(三重県) 宣長死去
 となります。

 チャートの設定ですが、存命中に天王星の発見があります。しかし、吉宗の設定と同じで良いでしょう。先ずは、天底に太陽のあるチャートを眺めて下さい。


mS's Ast. 019 宣長2

 宣長のチャートは土星と火星が地平線上近くにある以外は、他の5星が地平線下にあるという、どちらかというと対外的な社会生活よりも、内面的な生活を中心として、人生は後半生で開花することを示しています。また、天体間の座相で特にタイトなもの(1.5度以内)がありません。最もタイトなものは金星と水星の合と、それに対する土星のトラインが取り上げられます。意味としては、金星と水星の合は、芸事に対する素養で、土星のトラインはじっくりと時間をかけた錬成が必要であることを示しています。これらの事からすると、劇的に人生が展開していくというタイプではなく、淡々と積み上げていく人生を示しています。
 社会的に高い地位につくとは、余りこのチャートからは判断出来ません。当時の松坂は一般の城下町のように武家が幅を利かせることなく、伊勢街道の宿駅として商業を中心とした町人町として栄えていました。その中で商家の子となった宣長は、商人となるのが一般的な話です。しかし、金銭(金星)への機敏な判断と処理能力(水星)に付いては、趣味の方面(第5室)へ吸い取られてしまい、商人への適性は不十分であると思われます。母 かつ は、商人向きでない宣長の性格を見抜き、学問をさせ医者に仕立てて生活を築こうとしました。実に的確な判断だと思います。当時は学問と言っても、今のように多岐に渡る分野はありませんので、町人がインテリをしたい場合は、医者になるのが普通であったようです。
 前例のような、逐一の解読ではなく、的を絞って見ましょう。彼は23才から28才まで京都で医業を学び、松坂で開業、34才で加茂真淵に会い、門下に入り、30数年の時をかけて「古事記伝」を完成させます。この人生をしっかりと把握する為には、これらの時間がかかること、継続的な努力を必要とすることを支配する土星を見ることが大事です。
 天文暦を使うと土星の進行状況が判ります。一日一年法では1日を1年と読みかえます。1730年は7/3付近で留(s:ステイション)になり、以降、逆行します。この時期、父が死去、母のかつは宣長以下の子女を伴い本宅から別宅へ移ります。その後、母の方針で四書の講読や謡曲を習い始めます。本宅は売り払ってしまいますが、別宅は宣長が以降の生涯を過ごすことになります。
 引き続いて、土星は11/19に再び留となり、順行に転じますが、一日一年法では、120才くらいになりますので、土星は、以降逆行のままと見て良いでしょう。

 進行感受点をチェックしていくと、まだ土星絡みのことがあります。京都の遊学中、儒学を学ぶ傍らに契沖の「改観抄」をみて古学を志すのですが、それが丁度、進行の太陽と出生の土星がトラインの頃になります。
 また、進行のASCはこの出生データでは1765/8/7に出生の土星と60度の座相を作りますが、これは1763年から始まった真淵との関係と見て、出生時間の修正に使うことが出来るかも知れません。
 更に1793/6/5には土星とスクエア(90度)があります。どうもこれは長子の春庭の失明と考えられますので、前項と同じように修正に使えそうです。

 出生の土星は魚座宮の21度ですから、サビアン・シンボルは、「シナイ山の斜面を歩いて降りる、新しい法の石版をたずさえた予言者」となっています。つまり、彼の土星には、日常的には知り得ない「法」を知り、我々の言葉になおして伝えることが出来る特殊な機能が備わっているのです。

 また、出生の水星は蟹座宮の22度ですから「文学仲間の会合」で、そのものズバリ、文学の研究に始まり、鈴屋の集まりを作ったことが上げられます。

 ところで出生の土星と水星&金星のトラインが完成するにはグランド・トラインとなる3つ目のポイント、蠍座宮の21度付近に感受点が必要です。ここに進行の星が入るのは、進行の月を除くと火星が進行してくることが考えられます。この時期が、土星の完成の時期と考えることが出来ます。

 出生データに宣長の出生と死亡のデータが入っていると思いますが、使ってみましょう。3重円を表示させてから、[T][RET以外]で出生データの読み込みに入ります。出生データは経過のデータとして使い、表示されます。
 どうでしょうか。宣長の死亡時期には
  1 進行の火星(8室)によりグランド・トラインを作る。
  2 進行ASCがMC&太陽に達した。
  3 進行の月と出生の太陽と60度。
  4 経過の土星が出生の月を通過。

 4は死去を連想させる座相の一つですが、その他は、通常、特に「悪い」と判断されるようなものではありません。ハードなアスペクトによって死が位置付けられてない場合を「ご苦労さんパターン」などと呼んでいるのですが、これもその例になりそうです。